2012年 03月 30日

「皆で決める」|意思決定の力学

二人以上の人が力を合わせて事を成すには、チームワークが必要だ。「事を成す」とは、言うまでもなくチームの「成功」「勝利」「目標達成」という至上命題である。そこでチーム力を最大化させるには、チーム全員の士気を高めて方向性を一致させるのが最善である。例えば、全員の動機が一致して総意で意思決定した場合は、最も士気が高まるだろう。

一方、動機や方向性が異なるなか、チーム・メンバーが責任者の決めた事に従わされると、士気も責任感も高まらない。自ずとチームの生産性は高まらないし、トラブルのリスクを高める。

そのため、多くのリーダー論は動機と方向性を一致させる必要性や方法論を解説している。

しかし、刻々と変わる状況の中で瞬時の判断を要する場合や、速く対応するほど成果が出る場面、あるいは早く対応しないと致命的なダメージを受ける場面で、能力も生き様も価値観も異なる人たちの受け止め方は十人十色であり、悠長な擦り合わせなどやっていられない。端的な例は乗り物の運転だ。同乗者を乗せた自動車を運転している運転手は責任者だが、不測の障害物が唐突に飛び出して来た瞬間の対応は、多くの場合、結果論でしか語れない。そんな局面でも動機と方向性を一致させたければ、事前に事態を想定してケース・スタディを行い、トレーニングを積み上げて備えるしかない。それでも想定外の緊急事態に直面するのが現実だ。

そもそも、実際に想定外の修羅場を経験していない者は、悲観的な想定をすること自体を忌避するものだ。そして、「暇が無い」とか「有り得ない」という論理でケース・スタディに向き合わず、強制された時に仕方なく体裁整え程度の魂が入っていないトレーニングを行う。そんな場面を何度も見て来た。

責任者は、このような様々な現実に直面して葛藤しながら、最善と考えるバランスで意思決定を行い、その結果責任を負うのが役割だ。しかし、その意識も人により様々である。

例えば、スピード感が乏しい責任者の中には、切迫していない場面はもとより、切迫していても状況認識を誤り、「皆で決めよう」と言う者がいる。「皆で決める」というのは、民主的で綺麗な言葉だが、責任の所在を曖昧にする。冒頭に述べたチームの至上命題さえ共有しないまま、目先の浅薄な合理性と「快適」「気楽」を最優先して「皆の総意」で意思決定する。責任を取るべき立場にある者が、この言葉を使って意思決定をするのは、責任からの逃避という非難を免れない。皆で決めても良いことは、その結果が何であれ、至上命題に影響しない場面だけである。

なお、責任者が責任から逃げるのでなく、あくまで士気向上を目論んでいるなら、時間の許す限り「皆に聞いて、責任者が一人で決める」べきである。仮に、10人のチームで責任者以外の9人が至上命題に沿わない意見を言うなら、たとえ責任者が9人のチーム員から嫌われようとも、至上命題を深く捉えた上で、合理的な意思決定をしなくてはならない。
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by azatsu0422 | 2012-03-30 17:56 | 意思決定の力学


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