ボロは着れども心は錦。

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2007年 08月 03日

「昭和時代」って終わってしまえば良かったよね?

阿久悠さんの訃報を知り、数々の歌謡曲を思い出しながら、「歌は世につれ 世は歌につれ」を実感しています。

明治・大正・昭和ヒトけた生まれの人から「今どきの若い者」と呼ばれる私にとって、昭和と言えば昭和初期(金融恐慌・軍国主義化・満州事変・日中戦争・太平洋戦争)よりも、敗戦後から復興~高度成長期~バブル前までの印象が強いのですが、今や平成も19年目。
「昭和時代」という「過去」の表現をすることに違和感が少なくなっている自分に気づいて、寂しさを感じています。

私にとっての阿久悠さんのイメージは「瀬戸内少年野球団」です。
敗戦直後、スカっとした青い空、野球、夏目雅子さんが扮する美しく優しい先生、キラキラした子供たち、イン・ザ・ムード…。阿久悠さんの原点なんだろうな…と思いました。

昭和時代って、グチャグチャした事をウダウダ考えずに、漠然と明るい未来を信じて、無我夢中で、ひたむきに頑張っていて、家族や隣人・友人と励まし合って助け合い、日々の前進を皆で喜ぶ・・・そんな感じの人が多い時代だった気がします。

敗戦後にイン・ザ・ムードを聴いて多感な時期を過ごした少年が阿久悠さんになったのなら、バブル後の「失われた10年」を経た頃に、阿久悠さんの数々のヒット曲を聴きながら、ひたむきに生きてみるのも悪くないかも…?

とりあえず、昭和時代に生まれ育って良かったな、と思うことにします。


阿久悠さん尿管がんで死去、70歳 [ 08月02日 10時29分 ] 日刊スポーツ

 「北の宿から」「勝手にしやがれ」「UFO」など、数多くのヒット曲を手掛けた作詞家阿久悠さん(あく・ゆう、本名・深田公之=ふかだ・ひろゆき)が1日午前5時29分、尿管がんのため入院していた都内の病院で死去した。70歳。兵庫県出身。ジャンルを問わず5000曲以上を作詞し、70~80年代に昭和歌謡の黄金期を築いた。葬儀は近親者のみで行い、後日「送る会」を開く。喪主は妻深田雄子(ゆうこ)さん。
 ポップスから歌謡曲まで、ジャンルを問わない活動でヒットを飛ばし続けた阿久さんが、作詞家40周年の節目の年に旅立った。都内の病院でみとったのは妻雄子さんと1人息子の太郎さんで、眠るようにして逝ったという。
 関係者によると、阿久さんは01年9月に腎臓がんを患い、都内の病院で摘出手術を受けた。退院後は創作活動を行いながら、自宅のある伊豆や事務所のある東京を行き来し、通院治療や短期の検査入院などを繰り返していた。ある時期にぼうこうにがんが見つかったが体調は安定。容体が急変したのは先月10日ごろで、緊急入院してそのまま帰らぬ人となった。
 最期の仕事は、今月22日発売の渚ようこのアルバム「ノヴェラ ダモーレ」に「KABUKU」「どうせ天国へ行ったって」の2曲の詞を書き下ろした。「どうせ-」では、死後のことを「どうせ天国なんて 誰もいないから イヤよ」とつづっている。当時、歌手の岩崎宏美(48)が車いすに乗った恩師に「どこか痛いところはあるんですか」とたずねると「痛くないところがないんだよ」と、寂しそうにつぶやいたという。常々「自分には見えっぱりな部分や、強がるところがある」と話し、教え子の和田アキ子(57)が見舞いを申し出ても「元気な姿しか見せたくない」と断っていた阿久さんも、最近は体調不良を訴えることも多かったという。
 阿久さんが作詞家を志す原点は結核を発病した14歳のころ。医者から「激情を抱くと、胸が破れて死ぬ」と宣告され「文書を書くか絵を描くかしかなさそうだ」と心に決めたという。
 作詞家デビューは67年にザ・モップスが歌った「朝まで待てない」だった。その後は、山本リンダ「どうにもとまらない」、森昌子「せんせい」、都はるみ「北の宿から」など、アイドルから演歌までジャンルを問わないヒットメーカーとなった。70年代からは沢田研二と組み「勝手にしやがれ」などをヒットさせたほか、日本テレビの歌手オーディション番組「スター誕生!」の審査員として、ピンク・レディーや山口百恵、桜田淳子を発掘、歌謡曲の黄金期を築いた。
 誰もが口ずさめる名曲の数々は5000曲にのぼる。ペンネームに込められた「悪友」どころか、多くの人々の親友だった。


阿久悠さん、記録と記憶に言葉残し…病床でも気力 [ 08月02日 17時05分 ] 夕刊フジ

 尿管がんのため死去した作詞家で作家の阿久悠さん(享年70)。2001年5月、腎臓にがんが見つかって以来、闘病生活を送る傍ら、最後まで作詞やラジオの仕事を精力的にこなし続けていた。
 阿久さんは1日朝、都内の病院で息を引き取ると、そのまま静岡県伊東市の自宅へ無言の帰宅をした。兵庫県明石市から駆けつけた阿久さんの実姉は「今朝の電話で知りました」とショックで言葉少な。夜には歌手、石川さゆり(49)、作曲家、三木たかし(62)が弔問に訪れた。
 昭和歌謡界をリードした阿久さん。作詞を志すきっかけとなったのは、14歳で結核を発病し、医師から「激情を抱くと胸が破れて死ぬ」と言われ「文を書くか絵を描くか」と思うようになったことだという。その後、広告代理店勤務を経て1967年に作詞家デビュー、数々の大ヒット曲を世に送り出した。
 01年9月に入院し手術で腎臓を摘出した後、入退院を繰り返しながら伊豆の自宅と都内の事務所を行き来していた。ぼうこうにがんが転移してもがんと“共存”。容態が安定した時期もあった。尿管にがんが見つかった今年7月10日、再入院。関係者によると、親しい友人が見舞いに訪れるとイスに座り笑顔で応対するなど元気な様子を見せていたという。
 しだいに、食事や水を取ることができなくなり、点滴や酸素吸入を受けるようになっても、テレビで参院選の行方を見守るなど、気力の衰えはなかったという。
 31日夜、長男が病室を出るときに、珍しく阿久さんから握手を求めた後は、容態が急変。最期は雄子夫人や長男らが見守る中、静かに息を引き取った。
 通夜、葬儀は近親者のみで行い、後日、送る会が開かれる。


都倉俊一さん「ありがとう」数々の曲で名コンビの相方へ [ 08月02日 08時05分 ] サンケイスポーツ

 ピンク・レディーの一連の作品や山本リンダのセクシーなヒット曲などで阿久さんと名コンビを組んだ作曲家、都倉俊一さん(59)は1日夕、都内の事務所で思い出を語った。
 「学生の頃に出会い、生意気だったボクを温かく見守ってくれた。大学4年の時、阿久さんから山のようにスコア(楽譜)が届き、“これからプロで頑張れ”と、無言のうちに励ましてくれた。熱くて温かい、そういう人ですよ」と、当時を思い出して時折、笑みを浮かべて話した。
 最後に会ったのは2カ月前。家族同士で食事をした。「会うといつも先の話しかしない。元気にしゃべったけど、やはり弱々しさは隠せなかったと思う」としんみり。最後にひとこと、と問うと「素晴らしいパートナーでいてくれてありがとう。それしかありません」と声を詰まらせ、涙が止まらなかった。


なかにし氏、最高傑作は「青春時代」 [ 08月03日 10時29分 ] 日刊スポーツ

 作詞家阿久悠さん(享年70)の死去から一夜明けた2日、ライバル関係にあった作詞家で作家のなかにし礼氏(68)が阿久さんの死を悼んだ。
 作詞家として阿久さんと昭和歌謡をリードしてきたなかにし氏が都内で会見し、「阿久悠は昭和であり、日本の象徴だった」と語った。阿久さんの作品の最高傑作として「青春時代」(森田公一とトップギャラン)を挙げた。「『後から ほのぼの思うもの』なんてね、こう言われると、皆が納得しますよ。完成度も高く、何年たっても口ずさんでしまうでしょうね。すてきな歌です」と語った。
 ピンク・レディーなどを手掛けた阿久さんに対し、なかにし氏は「恋のフーガ」(ザ・ピーナッツ)「北酒場」(細川たかし)など、大人のヒット曲をつづってきた。戦後、中国から引き揚げてきた自分の少年時代を振り返りながら「僕は中国生まれでよそ者。阿久さんの作品には、日本人が納得するフレーズがあった。僕は歌によって日本との距離感を測りながらやってきた」。対極のライバルと認め合っていただけに、「(阿久さんの)アンチテーゼとしてやってきた。挑戦相手を失った気がする」と盟友の死を悔やんでいた。


アッコ「阿久さんの曲は大きな財産」 [ 08月02日 10時29分 ] 日刊スポーツ

 作詞家阿久悠さん(あく・ゆう、本名・深田公之=ふかだ・ひろゆき)が1日午前5時29分、尿管がんのため入院していた都内の病院で死去した。70歳。兵庫県出身。デビュー以来の恩師という和田アキ子(57)が阿久さんを語った。
 実は私の上京を東京駅で出迎えてくれたのが阿久さんだったの。私は新幹線を1本乗り遅れていたのに待っていてくれてね。今じゃ笑い話だけど、当時「絶世の美女が来た」って宣伝してくれたのも阿久さん。まだ作家で、私のデビュー曲「星空の孤独」から本格的に作詞家活動し始めた。
 阿久さんの歌詞はそれまでのものとは全然違ったの。「星空の孤独」の歌い出し「胸に広がる孤独の辛さ…」って歌詞は、18歳に見えない私にだから書けたって言ってた。シングルだけで13曲も書いてもらってる。中でもやっぱり72年のレコード大賞最優秀歌唱賞の「あの鐘を鳴らすのはあなた」よね。GS、演歌ブームの当時は、歌詞といったら「雨、酒、男と女」なんかが定番のフレーズだった。なのに阿久さんは「あなたに会えてよかった…」ときた。「誰に向けて歌えばいいですか?」と聞くと「アコが今まで出会ってきた人すべて、生きてきた街すべてを想像して歌うんだよ」って助言してくれた。最初はスケールが大きすぎて私には理解できなかったぐらい。女性が歌う歌でこんなに壮大な曲は、それまでなかったから。
 ピンク・レディーや沢田研二の歌の方が売れたけど、私は80歳になっても堂々と歌える曲をいただいた。紅白のトリでも阿久さんの作品を3曲も歌わせてもらってる。継承とでも言うのかな、それだけ大きな財産なの。歌手和田アキ子をつくってくれた大の恩人なんです。(歌手)


誰もが口ずさんだ、あの名曲残し… [ 08月02日 06時13分 ]

 ≪「スタ誕」教え子ピンク・レディー絶句≫時代の“仕掛け人”でもあった阿久さんの代表作が、日本テレビのスカウト番組「スター誕生!」(71~83年放送)。その申し子だったピンク・レディーをはじめ、タッグを組んでヒット曲を量産した作曲家の都倉俊一氏(59)、司会を務めた萩本欽一(66)ら“スタ誕”仲間も悲しみに暮れた。
 70年代の幕開けに「スタ誕」で“テレビを前提にした歌手づくり”を仕掛けた阿久さん。森昌子、桜田淳子、山口百恵の「中3トリオ」を生んだ後、集大成としたのがピンク・レディー。
 フォークソングで活動したがった2人を説得し、周囲が反対した「ペッパー警部」をデビュー盤のA面に据え、空前の大ヒットを連発。2人にとっては最大の恩人だ。
 未唯(49)は「突然の訃(ふ)報で戸惑い、大変驚いています。喪失感でいっぱいです。お顔を拝見するまではとても信じる気持ちになれません」とコメント。増田恵子(49)は来月2日に行うライブの案内状を阿久さんに送り、久しぶりの再会を楽しみにしていた矢先。「ただぼう然としています。非常に落胆して言葉になりません」。短い言葉に、そのショックの大きさがにじんでいた。
 番組開始の71年10月から80年4月まで司会を務めた萩本は、本紙の電話取材に「とんでもないことになっちゃって…」と一瞬言葉を失った。開始当初は「怖そうで近寄りがたかった」と言うが、半年後に視聴率20%を超えると「笑いながら話し掛けてくれてうれしかった。好きになっちゃいそうと思った」と振り返った。3カ月前にパーティー会場で会ったのが最後。「心地よい言葉であいさつをなさって、元気だったのに…」と早すぎる死を悼んだ。
 「ピンク・レディー」の名付け親で、阿久さんとは300曲以上作った盟友の都倉氏は「11歳も上なのに五分五分の関係で仕事をしてくれた。兄貴のように思っていた」と涙をこぼした。2カ月前に家族同士で食事したのが最後。「弱々しかった。照れ屋でニコニコできる性格じゃなかったけど、あんなに温かい人はいない」と人柄をしのんだ。


“UFO”に乗って天国へ… [ 08月03日 06時13分 ]

 作詞家で作家の阿久悠(あく・ゆう、本名・深田公之=ふかだ・ひろゆき)さんが尿管がんのため70歳で亡くなってから一夜明けた2日、ピンク・レディーの増田恵子(49)未唯(49)らがあらためて恩師をしのんだ。
 ≪増田恵子「ああ、どうしましょう…」≫悲報から一夜明けても増田の目は、真っ赤に腫れていた。
 「“ありがとう”の感謝の言葉も言えなくて…。ああ、どうしましょう…」
 生みの親の早すぎる死に、人目もはばからずうろたえ、涙が止まらない。悲しみ以上に、感謝の思いを最後に伝えられなかったやるせない思いが、何度もほおをつたった。
 レコーディングの現場にも現れなかった阿久さんが、会うと必ず言ったのが「食べてるか?」「寝てるか?」。
 「先生は絶対に目を合わしてくれなかった。必ず目をそらして、この2つの言葉を言うんです。ハードスケジュールにやせ細っていった私たちを心配してくれていたんだと思う」
 一番の思い出の曲は、大人っぽい内容の「マンデー・モナリザ・クラブ」。「子供向けの曲が多かった中、私たちは年をとっていく。でもブームに流されていくしかなかった中で“本当は君たちはこういう歌を歌いたいんだよね”と言って作ってくれたんです。先生には分かっていたんです。私たちの気持ちが。いつも見えないところで大きな歯車を押してくれていました」と、大きな支えだったことを強調。
 予定される「お別れ会」に関しては「(言えなかった)ありがとうの気持ちを伝えたい。“UFO”に乗ってってくれれば…」。阿久さんが「3分間のアニメーション」として作り上げたピンク・レディーの真骨頂といえる傑作の名を挙げ、永久につながっていたいという悲痛な思いを言葉にした。
 <未唯「最初にプロのと認めてくれた」>相棒の未唯は、この日朝から民放各局の情報番組に出演。「この世の中で最初にプロの歌手として認めてくれた人。ありがとうございましたと伝えたい」と思いを語った。ピンク・レディーの現役時代は「ほとんど話したことがなく、すべて都倉先生を通じてだった。解散してから、ゆっくり話す機会が増えた」という。直筆の手紙も紹介し「いつも見えないところから、ずっと見守ってくれていた」と感謝した。


阿久さんの悲報に未唯「戸惑いと喪失感」 [ 08月02日 10時29分 ] 日刊スポーツ

 作詞家阿久悠さん(あく・ゆう、本名・深田公之=ふかだ・ひろゆき)が1日午前5時29分、尿管がんのため入院していた都内の病院で死去した。70歳。兵庫県出身。阿久悠さんが生み出した国民的アイドル、ピンク・レディーの未唯(mie=49)と増田恵子(49)はこの日、悲報に言葉を失った。阿久さんとコンビを組んで2人を育てた作曲家都倉俊一氏(59)は、都内事務所で「2人でまた何かできる時代が来ると話していた」と、早すぎる死を悼んだ。
 阿久さんが審査員を務めていたオーディション番組「スター誕生」から巣立ったピンク・レディーは、76年のデビュー曲「ペッパー警部」に始まり、「UFO」「サウスポー」「渚のシンドバッド」、そしてラストシングル「OH!」まで、阿久さんの作品を歌い続けた。そして、実働5年で、社会現象を起こし、歌謡史の記録も数多く作った。
 未唯は「戸惑い、喪失感でいっぱいです。お顔を拝見するまでは、とても信じる気持ちになれません」とコメントした。一方の増田は、担当マネジャーから連絡を受け、言葉を失った。担当者は「絶句して、とても受け止められない状況です」と代弁した。増田は40周年記念アルバムの制作中で、先日、阿久さんからも祝福コメントが寄せられたばかり。「お元気そうで良かった、と話していた」(担当者)だけに、気持ちの整理がつかないようだ。
 ピンク・レディーの人気は、子供たちが歌や振り付けをまねたことから爆発的に広まったが、歌詞に子供もウキウキするような遊び心をちりばめたのは「従来の流行歌をどう壊すか」をテーマにした阿久さんの狙いでもあったという。本塁打世界記録の巨人王を歌い、モンスターもUFOも飛び出すなど、夢の世界が詞になった。
 作曲家都倉氏も、阿久さんの言葉や時代への敏感さを「よく『僕は時代の上を満たすんだ』と話していました。時代のにおいをかぎ分け、時代に言葉を投げ掛けて語り、時代に生きた人」と振り返った。阿久さんと最後に会ったのは2カ月ほど前だった。ピンク・レディーという時代を作った阿久さんは、その時も「また何かやろう。2人でまた何かできる時代が来るだろう」と意欲的だったという。


悲しい…はるみ、八代、リンダが涙 [ 08月02日 06時13分 ]

 阿久悠さん急逝の悲報に、歌謡界の多くのスターや往年のアイドルたちもショックを隠せなかった。日本レコード大賞受賞曲は史上最多の5作品。都内で会見した都はるみ(59)は「感謝の気持ちしかない」と声を震わせ、沢田研二(59)も早すぎる死を悼んだ。静岡県の自宅には1日深夜、石川さゆり(49)が作曲家の三木たかし氏(62)とともに駆けつけた。
 「北の宿から」で76年のレコ大に輝いたはるみは「私の第2のスタートをつくってくれた方」と、まず感謝の言葉から切り出した。威勢のいい少女から大人の女性へとイメージチェンジを図った1曲。「なにしろ自分が変わりたいと思っていた頃。歌った時に“都はるみじゃない”って言われた時はうれしかった」と涙をこらえながら話した。 阿久さんには歌詞の書き直しを依頼したほどの勝負作。「あまりに私を大きくしてくれた歌なので、嫌いになったこともあった。でもこれからはしっかりと力を入れずに歌っていきたい」と誓いを新たにした。昨年9月には師匠の市川昭介さんを亡くしており「天国で仲良く話をしてくれたらいいな」と続けた。
 80年のレコ大受賞曲「雨の慕情」を歌った八代亜紀(56)も都内で会見。「内面は本当に優しい人でした」と涙ながらにしのんだ。「日本人の魂をつかまえる詞だった。“舟唄”も最初の2行を読んだだけでヒットすると確信しました。あんな素晴らしい詞を作る先生はもう二度と出ないのではないでしょうか」と話して絶句した。
 77年に「勝手にしやがれ」でレコ大を受賞した沢田は「早すぎる最期です。アクの強い詞に七転八倒したのをきのうのことのように思い出します。阿久さんの歌を大切に歌っていきたい」とファクスでコメント。「彼らの才能と付き合うのであって、個人的に知らなくていい」と歌手とは距離を置いた阿久さんが一緒に食事をした数少ない1人でもあったジュリー。残された名曲を歌い続けることを誓った。
 「どうにもとまらない」「狙いうち」などのヒット曲がある山本リンダ(56)も会見し「先生は私や皆さんの中で、いつまでも生きていく。大事に大事に歌わせていただきます」とハンカチを握りしめながらポツリ。涙はとまらなかった。


甲子園出場校決定の日…阿久悠さん逝く [ 08月02日 06時13分 ]

 沢田研二の「勝手にしやがれ」やピンク・レディーの「UFO」などのヒット曲を手掛け、昭和歌謡界の黄金期をリードした作詞家で作家の阿久悠(あく・ゆう、本名・深田公之=ふかだ・ひろゆき)さんが1日午前5時29分、尿管がんのため、東京都港区の東京慈恵会医大病院で死去した。70歳。今年は作詞家生活40周年。この日は高校野球の甲子園出場校が出そろった日だった。通夜、葬儀は近親者のみで行い、後日、送る会を開く予定。喪主は妻雄子(ゆうこ)さん。
 阿久さんは01年5月、病院で健康診断を受けた際、腎臓がんが見つかった。米中枢同時テロが起きた前日の同年9月10日に入院して手術を受け、腎臓の1つを摘出した。以来、入退院を繰り返したが、今年5月から本紙で、自らの作品について時代背景を交えながら書く「阿久悠の昭和ジュークボックス」の連載を開始。7月10日に入院後も執筆を継続し、同22日付の伊藤咲子「ひまわり娘」で第1部を終了したが、第2部再開に意欲を見せていた。
 作詞家として手掛けた作品は約6000曲。日本レコード大賞、日本歌謡大賞、日本作詩大賞など多数受賞。最後の作品はペギー葉山のデビュー55周年記念シングル「神様がくれた愛のみち」(7月25日発売)だった。
 企画、審査員として携わった日本テレビ系「スター誕生!」からは森昌子、桜田淳子、山口百恵の「中3トリオ」、岩崎宏美、小泉今日子、中森明菜ら数多くのスターが生まれた。
 作家としては、映画化された「瀬戸内少年野球団」(直木賞候補作)や、「殺人狂時代 ユリエ」(横溝正史賞受賞)などを執筆。日本の家族を題材とした「家族の神話」「家族元年」、大人の恋愛小説「結婚式」「あこがれ」など作風は幅広かった。
 野球をこよなく愛し、79年から本紙で「甲子園の詩(うた)」を連載。毎年、夏の高校野球大会の48試合をすべて見て詩を書く力作で、都立雪が谷高校、岩手県の高田高校、新潟県の新発田農業高校などが歌碑にした。阿久さんは79年の箕島対星稜戦を「最高試合」としていた。
 97年、30年間にわたる作詞活動により第45回菊池寛賞を受賞、99年には紫綬褒章を受けた。
 自らの長年の活動については「今までにはないものを作ったという自負はある」と語っていた。
 阿久 悠 1937年(昭12)2月7日、兵庫県津名郡鮎原村(現・洲本市五色町鮎原)で生まれた。明治大学文学部卒、同大学院修士課程修了。広告代理店「宣弘社」で番組企画、CM制作などに携わった後、フリーに。ペンネームは「悪友」から。67年、初めてレコードA面のザ・モップス「朝まで待てない」を作詞して以来ヒットメーカーに。99年、スポニチ文化芸術大賞グランプリ受賞。


「背番号1」も悲報にショック [ 08月02日 06時13分 ]

c0019485_13141953.jpg78年3月30日、旧後楽園球場で巨人・王(現ソフトバンク監督)から打撃指導を受ける阿久悠さん 


 ♪背番号1の凄いヤツが相手…。ピンク・レディーが歌う「サウスポー」の登場人物のモデルとなったソフトバンクの王貞治監督(67)は突然の悲報に「才能豊かな人だった。年賀状は交換していたが、最後に会ったのは巨人時代かな。オレのホームランを知っている人が、どんどん、少なくなる。時代を共有した人が亡くなっていくのは寂しい」としのんだ。
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by azatsu0422 | 2007-08-03 12:54 | 社会


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