ボロは着れども心は錦。

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2007年 08月 23日

どんどんメジャーになって行くなぁ~…

ハナマルキ味噌のCMからブレークして、バブル時代の頃にトレンディ女優となった、最盛期の今井美樹を超える売れっ子になりそうな予感。

スポンサーの莫大なカネとスタッフの労力、そして皆の期待を裏切らないように…。
爽やかなイメージを崩さないで、ワキを締めて頑張ってね!

国内の女優としては身長が高くて男優とのバランスに苦慮するかも知れないけど、今でも語学留学したがってると思うから、マイペースで行くなら、出演のオファーがオーバーヒートした頃にプツっと留学して、そのままハリウッド・デビューすればいいかもね?
ハリウッドでメジャーになるには顔立ちのインパクトが弱いかも知れないけど、彼女なら、どうにでもなるよ。きっと。


人気スクーター「トゥデイ」がフルモデルチェンジ CMには榮倉奈々さん
[ 08月23日 11時15分 ] J-CASTニュース

本田技研工業は2007年8月22日、同社の原付スクーター「トゥデイ」をフルモデルチェンジして8月31日から売り出す、と発表した。50ccエンジンには、コンピューターで最適な燃料供給量を調整する「電子制御燃料噴射システム(PGM-FI)」を新たに搭載、従来モデルに比べて燃費が約12%向上している。また、駐車時に使用する「メインスタンド」の形が新しくなり、駐車の際に必要な力が、これまでよりも2割少なくて済むようになった。車体色は8色を用意、希望小売価格は134,000円(税込)。
同車種は02年8月に発売。粘り強く滑らかな出力特性の空冷4ストロークエンジンと、扱いやすい車体サイズやヘルメット収納スペース、盗難防止システムやコンビ・ブレーキシステム(前・後輪連動ブレーキ)などが受けて大ヒットを記録した。
イメージキャラクターには08年4月スタートのNHK朝の連続テレビ小説「瞳」のヒロインにも選ばれた、女優の榮倉奈々(えいくら・なな)さん(19)を起用。榮倉さんは男女問わず幅広い層から好感度が高く、「トゥデイでより楽しく素敵な毎日をエンジョイする」イメージにぴったりであるというのが理由のようだ。8月下旬からは「Happy Birthday to you~」のメロディーに合わせて「Happy Birthday today~」と歌声を披露しながら「トゥディ」を運転するTVCMも放映予定。
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by azatsu0422 | 2007-08-23 12:28 | 芸能(特集・榮倉奈々)
2007年 08月 21日

息抜き・・・

昨夜は何回戦頑張ったのかな・・・
イメージを大切に・・・身体に気をつけてね。
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by azatsu0422 | 2007-08-21 06:16 | 芸能(特集・榮倉奈々)
2007年 08月 19日

イメージを大切に…!

「彼女は運動が苦手だし、好きでもない」だって…(笑)。ホントは運痴な人なのに運動が得意で大好きって言われるよりは、ずっとラクだろうけど。
事務所が創ったイメージを維持するのはストレスでしょうけど、芸能ライターやら、ゲンダイやフジの餌食にされないように脇を緩めず、上手く息抜きしながら頑張ってね。キミなら出来る!


榮倉奈々(女優) [ 08月18日 10時00分 ] ゲンダイネット

 08年度前期の、NHK朝の連続テレビ小説「瞳」のヒロインに抜擢された。演じるのは、ヒップホップダンサーを目指して札幌から上京し、3人の子供の里親になる20歳の女性。1608人の応募者の中から選ばれた。
「まだスキャンダルがなく、純粋で清新な雰囲気だから、朝ドラのヒロインにはピッタリです。問題はヒップホップダンスが大好き、という設定。彼女は運動が苦手だし、好きでもない。うまくダンスができるかが、説得力のあるドラマになるかどうかの、ひとつのカギになる」(芸能ライター)
 昨年はドラマ「ダンドリ。」(フジテレビ)で連続ドラマに初主演し、今年は映画が4本公開。演技の経験は十分だ。
 1988年、鹿児島県生まれ、1歳から神奈川県相模原市で育った。一人っ子の榮倉は母親と仲が良く、悩み事があっても、母親はすぐに察してくれるという。
「でも、甘やかされて育ったわけではなく、悪いことをするとキチンと叱られた。サスペンスドラマが大好きだった榮倉が、ドラマで見た脅迫状のマネをして、玄関に『娘はもらった』などと書いた脅迫状を張り付けたことがあった。イタズラとバレて、こっぴどく叱られたそうです」(芸能ライター=前出)
 家族や親戚が三味線を弾いていたことから、榮倉も小学校1年から三味線と民謡を習い始めた。三味線は藤本流準師範、民謡は名取だ。
「『新堂本兄弟』で『涙そうそう』を弾き語りするなど、自慢の三味線の腕とノドをテレビでも何度か披露しています。堂々としていて、なかなかのものですよ」(雑誌記者)
 中学では、好きな女の先生に勧められて演劇部に入部。2年のとき、渋谷の109前でスカウトされ、3年からモデルを始めた。人気少女ファッション誌「セブンティーン」の専属モデルとして活躍。身長170センチ、股下85センチの9頭身の抜群のスタイルで人気が出た。
 美容には人一倍気を使っている。毎朝、炭酸水を250ミリリットル飲み、仕事前には散歩。半身浴、風呂上がりにストレッチ……と、日々努力しているのだ。
 モデルというとツンツンしたイメージが強いが、榮倉は素朴で親しみやすい性格のようだ。「超アナログ人間」で、少し前までパソコンも持っていなかった。“キティちゃん”が好きで、3歳の頃から使っているコップを今も愛用している。
 料理も、冷蔵庫の残り物で炒め物を作ったり、肉じゃがを作る。自身のブログでは、パジャマ姿やすっぴん顔も披露。朝ドラのヒロインになっても、このまま変わらないでほしい。


阿呆になるぐらい楽しんで!榮倉奈々が主演映画をPR [ 08月19日 08時05分 ] サンケイスポーツ

 女優の榮倉奈々(19)が18日、東京・渋谷アミューズCQNで主演映画「阿波DANCE」(長江俊和監督)の初日舞台あいさつを行った。阿波踊りとヒップホップを組み合わせて、新しいダンスを作ろうとする高校生の姿を描いた青春映画。共演の高橋克実(46)が「言ってしまいますけど、僕のダンスシーンはかなり(スタントマンと)入れ替わっています」と笑いを誘うと、榮倉は「私は吹き替えじゃないですよ。(一生懸命練習したから)そう思われたら悔しいので」とすかさず訂正。「日本中が(踊る)阿呆になるぐらい映画を楽しんでもらえれば」と笑顔でPRしていた。
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by azatsu0422 | 2007-08-19 20:09 | 芸能(特集・榮倉奈々)
2007年 08月 09日

おめでと!頑張れ☆

月9ドラマや映画だと仕事のある日常では、なかなか観られなくて…、NHKの朝ドラか大河ドラマのヒロインになって欲しいな、と願っていました。

で…、今朝、いつものように日課の日経新聞を読んでいたら、キミの記事が目に入ってズキっとしました。

きっと、キミはブレークするよ。初めて見た瞬間から、そう思ってた。
事務所に対して少し不安な印象もあったけど、キミをNHK受けする本格派女優として着実に育てて、道筋をつけていた気がする。
もちろん、(事務所がタレントを)水呑場に連れて行って(タレントが)水を飲むかどうかは、本人次第。
榮倉奈々は、ひたむきに、真面目に、与えられたアドバイスと機会をモノにして行ったんだろうね。

ロリ顔で胸の大きな、萌え系の女の子ばかりチヤホヤされているけど、芯が強く爽やかで健康的な、男に媚びない女性で、同性やお年寄りにスッと受け入れられる女の子が、潜在的に求められていると思ってた。

だから、「胸なんか気にするな!」、「演技力だって周りが何を言っても気にするなよ?上手・下手の問題じゃないよ。ハートのある演技を感じてるから大丈夫!」、「いずれ大河ドラマに出る器なんだから、今から学校の授業も歴史とか大事にしなよ?」、「黒髪そのままで行けよ!絶対に整形とかで顔や胸を作るなよ?」、って言って来たんだ。

キミに出逢えて幸運です。経験と共に内面を磨き上げて、末永く力強く光ってね。

体に気をつけて、頑張れ!


榮倉奈々“朝ドラ”主役にウルウル [ 08月09日 06時12分 ]

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榮倉奈々は、ヒロインに選ばれ笑顔を見せる

 08年度前期に放送されるNHK朝の連続テレビ小説「瞳」のヒロインが女優の榮倉奈々(19)に決まり、8日、東京・渋谷の同局で発表会見を行った。1608人の応募者の中から、大女優への登竜門とも言われる“朝ドラ”の主役を射止め、「夢を見てるみたい」と“瞳”を潤ませた。
 榮倉は、100人を超える報道陣や関係者が集まる会場を見渡し、目をウルウル。こみ上げる感激を抑えるように手で口を覆い、「きのう聞いたばっかりで信じられなかったけど、この場に立ってやっと納得できました」と喜びに浸った。
 ヒップホップダンサーを目指す20歳の瞳が、東京・月島に住む祖父とともに、里親として3人の子供たちと絆(きずな)を深めていく物語。7月上旬からダンスや演技のオーディションを重ね、3次選考に残った8人の中から榮倉が選ばれた。
 前日7日に「4次選考」と言われ同局を訪れたところ、プロデューサーらから起用を伝えられ「受かると思っていなかったので絶叫して涙が止まらなかった」。家族には会見直前に電話で報告し「母も“わあっ!”って絶叫して喜んでくれた」。鹿児島県に住む母方の祖父は朝ドラのファンで、「奈々はいつここに出るんだ?」が口癖。「私が出るのが夢だったので女優で本当によかったです」としみじみと話した。
 昨年放送されたフジテレビの主演ドラマ「ダンドリ。~Dance☆Drill~」ではチアダンスで日本一を目指す高校生、25日公開の映画「阿波DANCE」では阿波おどりとヒップホップが融合したダンスに挑戦する高校生を演じた。ダンスにかかわる役は3作目で「私はダンスに憑(つ)かれてるのかな」とニッコリ。尾崎充信チーフプロデューサーは「演技力とダンスはもちろん、たたずまいや存在感が光り、瞳も素晴らしい」と起用理由を説明した。
 クランクインは11月の予定。「プレッシャーもあるけど、選ばれたという自信を持って頑張りたい。(月島での)もんじゃ焼きとかも楽しみ」と話した。
 ◆榮倉 奈々(えいくら・なな)本名同じ。1988年(昭63)2月12日、鹿児島県生まれの19歳。02年、ファッション雑誌「セブンティーン」でモデルとしてデビュー。04年にNHKのドラマ「ジイジ~孫といた夏~」で女優に初挑戦。主な出演作はドラマ「危険なアネキ」「プロポーズ大作戦」、映画「僕は妹に恋をする」「檸檬のころ」。特技は三味線、民謡。1メートル70。血液型A。


栄倉奈々NHK朝ドラ「祖父の夢叶った」 [ 08月09日 10時29分 ] 日刊スポーツ

c0019485_2320128.jpg連続テレビ小説「瞳」のヒロインに決まり、目をうるませる栄倉奈々

 NHK08年度前期の連続テレビ小説「瞳」のヒロインに女優栄倉奈々(19)が決まり8日、同局でお披露目された。1608人の応募の中からオーディションで役を射止めた。民放では主演ドラマもあるが朝ドラヒロインには格別の喜びがあるという。「私が朝ドラに出るのが鹿児島のおじいちゃんの夢だった。『奈々は出ないのか』『そんな簡単に出られるもんじゃないんだよ』なんてよく話していました」。そのおじいちゃんには会見前に電話で伝えた。「うれしそうで、女優をやって本当に良かったと思いました」。ヒップホップダンスに夢中な20歳の女の子が、3人の子供の里親となることで「家族」を見詰め直していく過程を描く。


決め手はダンス&存在感!榮倉がNHK朝の連ドラヒロイン [ 08月09日 08時05分 ]
サンケイスポーツ

c0019485_2324322.jpg 女優、榮倉奈々(19)が来年4月スタートのNHK朝の連続テレビ小説「瞳」のヒロインに決まり、8日、東京都渋谷区の同局で発表会見を行った。オーディションで1608人の頂点に立った榮倉は、「合格を知らされて、涙が止まりませんでした」と大感激。
 同ドラマはダンス好きの女の子、瞳(榮倉)が3人の子供の里親になり、バラバラになった家族の絆を取り戻す物語。オーディションではダンスが重要なポイントになり、フジ系主演ドラマ「ダンドリ。」でチアリーディング、今月25日公開の映画「阿波 DANCE」(長江俊和監督)でヒップホップなどを経験したことが生きた。
 これまで朝ドラのヒロインは無名の新人女優を抜擢することが多く、連ドラ主演経験のある榮倉の起用は異例。尾崎充信チーフプロデューサーは「キャリアは関係ない。榮倉さんは“瞳”もキレイで存在感がある」と期待をかけていた。
〔写真:NHK朝ドラのヒロインの座を射止めた榮倉奈々。「決定を聞いて絶叫しちゃいました」と、大きな瞳をウルウルさせた〕


<朝ドラ「瞳」>ヒロインに榮倉奈々さん決まる [ 08月08日 18時51分 ]

 NHKは8日、2008年4月に始まる朝の連続テレビ小説「瞳(ひとみ)」のヒロインが榮倉(えいくら)奈々さん(19)に決まったと発表した。
 榮倉さんはオーディションに応募し、1608人の中から選ばれた。物語はヒップホップのダンサーを目指して札幌から上京した女性が、3人の子供の里親になるうち家族のあり方に目覚める内容。昨年のフジテレビ系連続ドラマ「ダンドリ。」で主役を務めたこともある榮倉さんは「昨日聞き、驚いて絶叫した。ダンスを一生懸命練習したい」と笑顔で話した。


NHK朝ドラ 新ヒロインは長身美脚の榮倉奈々 [ 08月12日 10時00分 ] ゲンダイネット

 ニッコリ笑って手を振る美女は、来春スタートのNHK連続テレビ小説「瞳」のヒロインに選ばれた女優・榮倉奈々チャン(19)。
 オーディションで1608人の中から役を射止めた。といっても、5年前から雑誌のモデルで活躍。ドラマ「ダンドリ。~Dance☆Drill~」や「プロポーズ大作戦」にも出演した売り出し中の若手女優だ。170センチの長身と美脚ばかりが注目されがちだが、笑顔もカワイイ!


NHK朝ドラヒロインたちの“その後” [ 08月13日 10時00分 ] ゲンダイネット

 榮倉奈々(19)が来年4月スタートのNHK朝の連続テレビ小説「瞳」の主演に決まった。かつては、朝ドラで箔付けして一流へのし上がる女優が多かったものだが、このところヒロインたちの“その後”はパッとしない。
 松嶋菜々子(96年「ひまわり」主演)の妹分としてプッシュされた藤澤恵麻(04年「天花」)はサッパリだし、宮地真緒(02年「まんてん」)は度重なる男性スキャンダルでイメージダウン。岡本綾(00年「オードリー」)にいたっては、朝ドラ先輩の竹内結子(99年「あすか」)のダンナの中村獅童との不倫がバレ、逃げ出すように引退してしまった。
「それでも、顔と名前が一致すればいいほう。朝ドラ卒業後、女優だかタレントだか立ち位置がハッキリしないのばっかりです。朝ドラ人気が落ち込んでいて馴染みになりにくいのもありますが、ヒロインの小粒化も原因でしょう」(芸能関係者)
 榮倉はドラマ「ダンドリ。~Dance☆Drill~」(フジテレビ)で主演を踏んだ経験アリなので、ぜひガンバッてほしいものだ。
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by azatsu0422 | 2007-08-09 23:17 | 芸能(特集・榮倉奈々)
2007年 08月 06日

忙しそう・・・

カレシ出来たって感じの顔だなぁ・・・。取り敢えず頑張ってね。


榮倉奈々 ダンス漬け女子高生熱演 [ 08月06日 06時13分 ]


c0019485_110515.jpg映画「阿波DANCE」舞台あいさつ ピースサインで映画をPRする榮倉奈々


 女優の榮倉奈々(19)主演で25日から全国公開される映画「阿波DANCE」(監督長江俊和)の試写会が都内で行われた。阿波おどりとヒップホップが融合したダンスに挑戦する高校生の青春物語。「熱くなるって格好いい。アホになれるほど熱中できることを持っている人はステキ」と笑顔で話した。ヒップホップダンスの天才少女役で、1カ月間の徳島ロケもダンスのレッスン漬けで「もっとうまくなりたかった」と悔しそうに話した。
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by azatsu0422 | 2007-08-06 11:04 | 芸能(特集・榮倉奈々)
2007年 08月 03日

「昭和時代」って終わってしまえば良かったよね?

阿久悠さんの訃報を知り、数々の歌謡曲を思い出しながら、「歌は世につれ 世は歌につれ」を実感しています。

明治・大正・昭和ヒトけた生まれの人から「今どきの若い者」と呼ばれる私にとって、昭和と言えば昭和初期(金融恐慌・軍国主義化・満州事変・日中戦争・太平洋戦争)よりも、敗戦後から復興~高度成長期~バブル前までの印象が強いのですが、今や平成も19年目。
「昭和時代」という「過去」の表現をすることに違和感が少なくなっている自分に気づいて、寂しさを感じています。

私にとっての阿久悠さんのイメージは「瀬戸内少年野球団」です。
敗戦直後、スカっとした青い空、野球、夏目雅子さんが扮する美しく優しい先生、キラキラした子供たち、イン・ザ・ムード…。阿久悠さんの原点なんだろうな…と思いました。

昭和時代って、グチャグチャした事をウダウダ考えずに、漠然と明るい未来を信じて、無我夢中で、ひたむきに頑張っていて、家族や隣人・友人と励まし合って助け合い、日々の前進を皆で喜ぶ・・・そんな感じの人が多い時代だった気がします。

敗戦後にイン・ザ・ムードを聴いて多感な時期を過ごした少年が阿久悠さんになったのなら、バブル後の「失われた10年」を経た頃に、阿久悠さんの数々のヒット曲を聴きながら、ひたむきに生きてみるのも悪くないかも…?

とりあえず、昭和時代に生まれ育って良かったな、と思うことにします。


阿久悠さん尿管がんで死去、70歳 [ 08月02日 10時29分 ] 日刊スポーツ

 「北の宿から」「勝手にしやがれ」「UFO」など、数多くのヒット曲を手掛けた作詞家阿久悠さん(あく・ゆう、本名・深田公之=ふかだ・ひろゆき)が1日午前5時29分、尿管がんのため入院していた都内の病院で死去した。70歳。兵庫県出身。ジャンルを問わず5000曲以上を作詞し、70~80年代に昭和歌謡の黄金期を築いた。葬儀は近親者のみで行い、後日「送る会」を開く。喪主は妻深田雄子(ゆうこ)さん。
 ポップスから歌謡曲まで、ジャンルを問わない活動でヒットを飛ばし続けた阿久さんが、作詞家40周年の節目の年に旅立った。都内の病院でみとったのは妻雄子さんと1人息子の太郎さんで、眠るようにして逝ったという。
 関係者によると、阿久さんは01年9月に腎臓がんを患い、都内の病院で摘出手術を受けた。退院後は創作活動を行いながら、自宅のある伊豆や事務所のある東京を行き来し、通院治療や短期の検査入院などを繰り返していた。ある時期にぼうこうにがんが見つかったが体調は安定。容体が急変したのは先月10日ごろで、緊急入院してそのまま帰らぬ人となった。
 最期の仕事は、今月22日発売の渚ようこのアルバム「ノヴェラ ダモーレ」に「KABUKU」「どうせ天国へ行ったって」の2曲の詞を書き下ろした。「どうせ-」では、死後のことを「どうせ天国なんて 誰もいないから イヤよ」とつづっている。当時、歌手の岩崎宏美(48)が車いすに乗った恩師に「どこか痛いところはあるんですか」とたずねると「痛くないところがないんだよ」と、寂しそうにつぶやいたという。常々「自分には見えっぱりな部分や、強がるところがある」と話し、教え子の和田アキ子(57)が見舞いを申し出ても「元気な姿しか見せたくない」と断っていた阿久さんも、最近は体調不良を訴えることも多かったという。
 阿久さんが作詞家を志す原点は結核を発病した14歳のころ。医者から「激情を抱くと、胸が破れて死ぬ」と宣告され「文書を書くか絵を描くかしかなさそうだ」と心に決めたという。
 作詞家デビューは67年にザ・モップスが歌った「朝まで待てない」だった。その後は、山本リンダ「どうにもとまらない」、森昌子「せんせい」、都はるみ「北の宿から」など、アイドルから演歌までジャンルを問わないヒットメーカーとなった。70年代からは沢田研二と組み「勝手にしやがれ」などをヒットさせたほか、日本テレビの歌手オーディション番組「スター誕生!」の審査員として、ピンク・レディーや山口百恵、桜田淳子を発掘、歌謡曲の黄金期を築いた。
 誰もが口ずさめる名曲の数々は5000曲にのぼる。ペンネームに込められた「悪友」どころか、多くの人々の親友だった。


阿久悠さん、記録と記憶に言葉残し…病床でも気力 [ 08月02日 17時05分 ] 夕刊フジ

 尿管がんのため死去した作詞家で作家の阿久悠さん(享年70)。2001年5月、腎臓にがんが見つかって以来、闘病生活を送る傍ら、最後まで作詞やラジオの仕事を精力的にこなし続けていた。
 阿久さんは1日朝、都内の病院で息を引き取ると、そのまま静岡県伊東市の自宅へ無言の帰宅をした。兵庫県明石市から駆けつけた阿久さんの実姉は「今朝の電話で知りました」とショックで言葉少な。夜には歌手、石川さゆり(49)、作曲家、三木たかし(62)が弔問に訪れた。
 昭和歌謡界をリードした阿久さん。作詞を志すきっかけとなったのは、14歳で結核を発病し、医師から「激情を抱くと胸が破れて死ぬ」と言われ「文を書くか絵を描くか」と思うようになったことだという。その後、広告代理店勤務を経て1967年に作詞家デビュー、数々の大ヒット曲を世に送り出した。
 01年9月に入院し手術で腎臓を摘出した後、入退院を繰り返しながら伊豆の自宅と都内の事務所を行き来していた。ぼうこうにがんが転移してもがんと“共存”。容態が安定した時期もあった。尿管にがんが見つかった今年7月10日、再入院。関係者によると、親しい友人が見舞いに訪れるとイスに座り笑顔で応対するなど元気な様子を見せていたという。
 しだいに、食事や水を取ることができなくなり、点滴や酸素吸入を受けるようになっても、テレビで参院選の行方を見守るなど、気力の衰えはなかったという。
 31日夜、長男が病室を出るときに、珍しく阿久さんから握手を求めた後は、容態が急変。最期は雄子夫人や長男らが見守る中、静かに息を引き取った。
 通夜、葬儀は近親者のみで行い、後日、送る会が開かれる。


都倉俊一さん「ありがとう」数々の曲で名コンビの相方へ [ 08月02日 08時05分 ] サンケイスポーツ

 ピンク・レディーの一連の作品や山本リンダのセクシーなヒット曲などで阿久さんと名コンビを組んだ作曲家、都倉俊一さん(59)は1日夕、都内の事務所で思い出を語った。
 「学生の頃に出会い、生意気だったボクを温かく見守ってくれた。大学4年の時、阿久さんから山のようにスコア(楽譜)が届き、“これからプロで頑張れ”と、無言のうちに励ましてくれた。熱くて温かい、そういう人ですよ」と、当時を思い出して時折、笑みを浮かべて話した。
 最後に会ったのは2カ月前。家族同士で食事をした。「会うといつも先の話しかしない。元気にしゃべったけど、やはり弱々しさは隠せなかったと思う」としんみり。最後にひとこと、と問うと「素晴らしいパートナーでいてくれてありがとう。それしかありません」と声を詰まらせ、涙が止まらなかった。


なかにし氏、最高傑作は「青春時代」 [ 08月03日 10時29分 ] 日刊スポーツ

 作詞家阿久悠さん(享年70)の死去から一夜明けた2日、ライバル関係にあった作詞家で作家のなかにし礼氏(68)が阿久さんの死を悼んだ。
 作詞家として阿久さんと昭和歌謡をリードしてきたなかにし氏が都内で会見し、「阿久悠は昭和であり、日本の象徴だった」と語った。阿久さんの作品の最高傑作として「青春時代」(森田公一とトップギャラン)を挙げた。「『後から ほのぼの思うもの』なんてね、こう言われると、皆が納得しますよ。完成度も高く、何年たっても口ずさんでしまうでしょうね。すてきな歌です」と語った。
 ピンク・レディーなどを手掛けた阿久さんに対し、なかにし氏は「恋のフーガ」(ザ・ピーナッツ)「北酒場」(細川たかし)など、大人のヒット曲をつづってきた。戦後、中国から引き揚げてきた自分の少年時代を振り返りながら「僕は中国生まれでよそ者。阿久さんの作品には、日本人が納得するフレーズがあった。僕は歌によって日本との距離感を測りながらやってきた」。対極のライバルと認め合っていただけに、「(阿久さんの)アンチテーゼとしてやってきた。挑戦相手を失った気がする」と盟友の死を悔やんでいた。


アッコ「阿久さんの曲は大きな財産」 [ 08月02日 10時29分 ] 日刊スポーツ

 作詞家阿久悠さん(あく・ゆう、本名・深田公之=ふかだ・ひろゆき)が1日午前5時29分、尿管がんのため入院していた都内の病院で死去した。70歳。兵庫県出身。デビュー以来の恩師という和田アキ子(57)が阿久さんを語った。
 実は私の上京を東京駅で出迎えてくれたのが阿久さんだったの。私は新幹線を1本乗り遅れていたのに待っていてくれてね。今じゃ笑い話だけど、当時「絶世の美女が来た」って宣伝してくれたのも阿久さん。まだ作家で、私のデビュー曲「星空の孤独」から本格的に作詞家活動し始めた。
 阿久さんの歌詞はそれまでのものとは全然違ったの。「星空の孤独」の歌い出し「胸に広がる孤独の辛さ…」って歌詞は、18歳に見えない私にだから書けたって言ってた。シングルだけで13曲も書いてもらってる。中でもやっぱり72年のレコード大賞最優秀歌唱賞の「あの鐘を鳴らすのはあなた」よね。GS、演歌ブームの当時は、歌詞といったら「雨、酒、男と女」なんかが定番のフレーズだった。なのに阿久さんは「あなたに会えてよかった…」ときた。「誰に向けて歌えばいいですか?」と聞くと「アコが今まで出会ってきた人すべて、生きてきた街すべてを想像して歌うんだよ」って助言してくれた。最初はスケールが大きすぎて私には理解できなかったぐらい。女性が歌う歌でこんなに壮大な曲は、それまでなかったから。
 ピンク・レディーや沢田研二の歌の方が売れたけど、私は80歳になっても堂々と歌える曲をいただいた。紅白のトリでも阿久さんの作品を3曲も歌わせてもらってる。継承とでも言うのかな、それだけ大きな財産なの。歌手和田アキ子をつくってくれた大の恩人なんです。(歌手)


誰もが口ずさんだ、あの名曲残し… [ 08月02日 06時13分 ]

 ≪「スタ誕」教え子ピンク・レディー絶句≫時代の“仕掛け人”でもあった阿久さんの代表作が、日本テレビのスカウト番組「スター誕生!」(71~83年放送)。その申し子だったピンク・レディーをはじめ、タッグを組んでヒット曲を量産した作曲家の都倉俊一氏(59)、司会を務めた萩本欽一(66)ら“スタ誕”仲間も悲しみに暮れた。
 70年代の幕開けに「スタ誕」で“テレビを前提にした歌手づくり”を仕掛けた阿久さん。森昌子、桜田淳子、山口百恵の「中3トリオ」を生んだ後、集大成としたのがピンク・レディー。
 フォークソングで活動したがった2人を説得し、周囲が反対した「ペッパー警部」をデビュー盤のA面に据え、空前の大ヒットを連発。2人にとっては最大の恩人だ。
 未唯(49)は「突然の訃(ふ)報で戸惑い、大変驚いています。喪失感でいっぱいです。お顔を拝見するまではとても信じる気持ちになれません」とコメント。増田恵子(49)は来月2日に行うライブの案内状を阿久さんに送り、久しぶりの再会を楽しみにしていた矢先。「ただぼう然としています。非常に落胆して言葉になりません」。短い言葉に、そのショックの大きさがにじんでいた。
 番組開始の71年10月から80年4月まで司会を務めた萩本は、本紙の電話取材に「とんでもないことになっちゃって…」と一瞬言葉を失った。開始当初は「怖そうで近寄りがたかった」と言うが、半年後に視聴率20%を超えると「笑いながら話し掛けてくれてうれしかった。好きになっちゃいそうと思った」と振り返った。3カ月前にパーティー会場で会ったのが最後。「心地よい言葉であいさつをなさって、元気だったのに…」と早すぎる死を悼んだ。
 「ピンク・レディー」の名付け親で、阿久さんとは300曲以上作った盟友の都倉氏は「11歳も上なのに五分五分の関係で仕事をしてくれた。兄貴のように思っていた」と涙をこぼした。2カ月前に家族同士で食事したのが最後。「弱々しかった。照れ屋でニコニコできる性格じゃなかったけど、あんなに温かい人はいない」と人柄をしのんだ。


“UFO”に乗って天国へ… [ 08月03日 06時13分 ]

 作詞家で作家の阿久悠(あく・ゆう、本名・深田公之=ふかだ・ひろゆき)さんが尿管がんのため70歳で亡くなってから一夜明けた2日、ピンク・レディーの増田恵子(49)未唯(49)らがあらためて恩師をしのんだ。
 ≪増田恵子「ああ、どうしましょう…」≫悲報から一夜明けても増田の目は、真っ赤に腫れていた。
 「“ありがとう”の感謝の言葉も言えなくて…。ああ、どうしましょう…」
 生みの親の早すぎる死に、人目もはばからずうろたえ、涙が止まらない。悲しみ以上に、感謝の思いを最後に伝えられなかったやるせない思いが、何度もほおをつたった。
 レコーディングの現場にも現れなかった阿久さんが、会うと必ず言ったのが「食べてるか?」「寝てるか?」。
 「先生は絶対に目を合わしてくれなかった。必ず目をそらして、この2つの言葉を言うんです。ハードスケジュールにやせ細っていった私たちを心配してくれていたんだと思う」
 一番の思い出の曲は、大人っぽい内容の「マンデー・モナリザ・クラブ」。「子供向けの曲が多かった中、私たちは年をとっていく。でもブームに流されていくしかなかった中で“本当は君たちはこういう歌を歌いたいんだよね”と言って作ってくれたんです。先生には分かっていたんです。私たちの気持ちが。いつも見えないところで大きな歯車を押してくれていました」と、大きな支えだったことを強調。
 予定される「お別れ会」に関しては「(言えなかった)ありがとうの気持ちを伝えたい。“UFO”に乗ってってくれれば…」。阿久さんが「3分間のアニメーション」として作り上げたピンク・レディーの真骨頂といえる傑作の名を挙げ、永久につながっていたいという悲痛な思いを言葉にした。
 <未唯「最初にプロのと認めてくれた」>相棒の未唯は、この日朝から民放各局の情報番組に出演。「この世の中で最初にプロの歌手として認めてくれた人。ありがとうございましたと伝えたい」と思いを語った。ピンク・レディーの現役時代は「ほとんど話したことがなく、すべて都倉先生を通じてだった。解散してから、ゆっくり話す機会が増えた」という。直筆の手紙も紹介し「いつも見えないところから、ずっと見守ってくれていた」と感謝した。


阿久さんの悲報に未唯「戸惑いと喪失感」 [ 08月02日 10時29分 ] 日刊スポーツ

 作詞家阿久悠さん(あく・ゆう、本名・深田公之=ふかだ・ひろゆき)が1日午前5時29分、尿管がんのため入院していた都内の病院で死去した。70歳。兵庫県出身。阿久悠さんが生み出した国民的アイドル、ピンク・レディーの未唯(mie=49)と増田恵子(49)はこの日、悲報に言葉を失った。阿久さんとコンビを組んで2人を育てた作曲家都倉俊一氏(59)は、都内事務所で「2人でまた何かできる時代が来ると話していた」と、早すぎる死を悼んだ。
 阿久さんが審査員を務めていたオーディション番組「スター誕生」から巣立ったピンク・レディーは、76年のデビュー曲「ペッパー警部」に始まり、「UFO」「サウスポー」「渚のシンドバッド」、そしてラストシングル「OH!」まで、阿久さんの作品を歌い続けた。そして、実働5年で、社会現象を起こし、歌謡史の記録も数多く作った。
 未唯は「戸惑い、喪失感でいっぱいです。お顔を拝見するまでは、とても信じる気持ちになれません」とコメントした。一方の増田は、担当マネジャーから連絡を受け、言葉を失った。担当者は「絶句して、とても受け止められない状況です」と代弁した。増田は40周年記念アルバムの制作中で、先日、阿久さんからも祝福コメントが寄せられたばかり。「お元気そうで良かった、と話していた」(担当者)だけに、気持ちの整理がつかないようだ。
 ピンク・レディーの人気は、子供たちが歌や振り付けをまねたことから爆発的に広まったが、歌詞に子供もウキウキするような遊び心をちりばめたのは「従来の流行歌をどう壊すか」をテーマにした阿久さんの狙いでもあったという。本塁打世界記録の巨人王を歌い、モンスターもUFOも飛び出すなど、夢の世界が詞になった。
 作曲家都倉氏も、阿久さんの言葉や時代への敏感さを「よく『僕は時代の上を満たすんだ』と話していました。時代のにおいをかぎ分け、時代に言葉を投げ掛けて語り、時代に生きた人」と振り返った。阿久さんと最後に会ったのは2カ月ほど前だった。ピンク・レディーという時代を作った阿久さんは、その時も「また何かやろう。2人でまた何かできる時代が来るだろう」と意欲的だったという。


悲しい…はるみ、八代、リンダが涙 [ 08月02日 06時13分 ]

 阿久悠さん急逝の悲報に、歌謡界の多くのスターや往年のアイドルたちもショックを隠せなかった。日本レコード大賞受賞曲は史上最多の5作品。都内で会見した都はるみ(59)は「感謝の気持ちしかない」と声を震わせ、沢田研二(59)も早すぎる死を悼んだ。静岡県の自宅には1日深夜、石川さゆり(49)が作曲家の三木たかし氏(62)とともに駆けつけた。
 「北の宿から」で76年のレコ大に輝いたはるみは「私の第2のスタートをつくってくれた方」と、まず感謝の言葉から切り出した。威勢のいい少女から大人の女性へとイメージチェンジを図った1曲。「なにしろ自分が変わりたいと思っていた頃。歌った時に“都はるみじゃない”って言われた時はうれしかった」と涙をこらえながら話した。 阿久さんには歌詞の書き直しを依頼したほどの勝負作。「あまりに私を大きくしてくれた歌なので、嫌いになったこともあった。でもこれからはしっかりと力を入れずに歌っていきたい」と誓いを新たにした。昨年9月には師匠の市川昭介さんを亡くしており「天国で仲良く話をしてくれたらいいな」と続けた。
 80年のレコ大受賞曲「雨の慕情」を歌った八代亜紀(56)も都内で会見。「内面は本当に優しい人でした」と涙ながらにしのんだ。「日本人の魂をつかまえる詞だった。“舟唄”も最初の2行を読んだだけでヒットすると確信しました。あんな素晴らしい詞を作る先生はもう二度と出ないのではないでしょうか」と話して絶句した。
 77年に「勝手にしやがれ」でレコ大を受賞した沢田は「早すぎる最期です。アクの強い詞に七転八倒したのをきのうのことのように思い出します。阿久さんの歌を大切に歌っていきたい」とファクスでコメント。「彼らの才能と付き合うのであって、個人的に知らなくていい」と歌手とは距離を置いた阿久さんが一緒に食事をした数少ない1人でもあったジュリー。残された名曲を歌い続けることを誓った。
 「どうにもとまらない」「狙いうち」などのヒット曲がある山本リンダ(56)も会見し「先生は私や皆さんの中で、いつまでも生きていく。大事に大事に歌わせていただきます」とハンカチを握りしめながらポツリ。涙はとまらなかった。


甲子園出場校決定の日…阿久悠さん逝く [ 08月02日 06時13分 ]

 沢田研二の「勝手にしやがれ」やピンク・レディーの「UFO」などのヒット曲を手掛け、昭和歌謡界の黄金期をリードした作詞家で作家の阿久悠(あく・ゆう、本名・深田公之=ふかだ・ひろゆき)さんが1日午前5時29分、尿管がんのため、東京都港区の東京慈恵会医大病院で死去した。70歳。今年は作詞家生活40周年。この日は高校野球の甲子園出場校が出そろった日だった。通夜、葬儀は近親者のみで行い、後日、送る会を開く予定。喪主は妻雄子(ゆうこ)さん。
 阿久さんは01年5月、病院で健康診断を受けた際、腎臓がんが見つかった。米中枢同時テロが起きた前日の同年9月10日に入院して手術を受け、腎臓の1つを摘出した。以来、入退院を繰り返したが、今年5月から本紙で、自らの作品について時代背景を交えながら書く「阿久悠の昭和ジュークボックス」の連載を開始。7月10日に入院後も執筆を継続し、同22日付の伊藤咲子「ひまわり娘」で第1部を終了したが、第2部再開に意欲を見せていた。
 作詞家として手掛けた作品は約6000曲。日本レコード大賞、日本歌謡大賞、日本作詩大賞など多数受賞。最後の作品はペギー葉山のデビュー55周年記念シングル「神様がくれた愛のみち」(7月25日発売)だった。
 企画、審査員として携わった日本テレビ系「スター誕生!」からは森昌子、桜田淳子、山口百恵の「中3トリオ」、岩崎宏美、小泉今日子、中森明菜ら数多くのスターが生まれた。
 作家としては、映画化された「瀬戸内少年野球団」(直木賞候補作)や、「殺人狂時代 ユリエ」(横溝正史賞受賞)などを執筆。日本の家族を題材とした「家族の神話」「家族元年」、大人の恋愛小説「結婚式」「あこがれ」など作風は幅広かった。
 野球をこよなく愛し、79年から本紙で「甲子園の詩(うた)」を連載。毎年、夏の高校野球大会の48試合をすべて見て詩を書く力作で、都立雪が谷高校、岩手県の高田高校、新潟県の新発田農業高校などが歌碑にした。阿久さんは79年の箕島対星稜戦を「最高試合」としていた。
 97年、30年間にわたる作詞活動により第45回菊池寛賞を受賞、99年には紫綬褒章を受けた。
 自らの長年の活動については「今までにはないものを作ったという自負はある」と語っていた。
 阿久 悠 1937年(昭12)2月7日、兵庫県津名郡鮎原村(現・洲本市五色町鮎原)で生まれた。明治大学文学部卒、同大学院修士課程修了。広告代理店「宣弘社」で番組企画、CM制作などに携わった後、フリーに。ペンネームは「悪友」から。67年、初めてレコードA面のザ・モップス「朝まで待てない」を作詞して以来ヒットメーカーに。99年、スポニチ文化芸術大賞グランプリ受賞。


「背番号1」も悲報にショック [ 08月02日 06時13分 ]

c0019485_13141953.jpg78年3月30日、旧後楽園球場で巨人・王(現ソフトバンク監督)から打撃指導を受ける阿久悠さん 


 ♪背番号1の凄いヤツが相手…。ピンク・レディーが歌う「サウスポー」の登場人物のモデルとなったソフトバンクの王貞治監督(67)は突然の悲報に「才能豊かな人だった。年賀状は交換していたが、最後に会ったのは巨人時代かな。オレのホームランを知っている人が、どんどん、少なくなる。時代を共有した人が亡くなっていくのは寂しい」としのんだ。
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by azatsu0422 | 2007-08-03 12:54 | 社会